
最近は相変わらずモチベーションの低い日々を過ごしています。
僕は今、おそらく現世で体験できる喜びのほとんどすべてを手に入れてしまって面白くないという状態なのだろうと思います。もちろんまだ体験していないことはたくさんありますが、それによって得られる喜びは別の体験を通じて得てしまっているので、体験しなくても想像できてしまうからモチベーションが湧かない、という論理なのではないかと思います。友人やXのpostを見ていてもみんな同じようなものなので、40代あるあるなのかもしれません。
僕は昔から、そして今もタナトフォビアで苦しみ続けているのですが、中学生の頃に至った結論は、記録や記憶は何も残らないけれど事実は残るから、自分が思う理想の事実を刻みまくろうというものでした。地球や宇宙の歴史に比べれば自分の人生なんて一瞬だから、人生一回きりだから、100年後には全員骨だから、自分が不利だろうがなんだろうが気にせずに全力で走り切ろう、と思いました。その結果、死ぬほど努力できる精神を手に入れ、当時欲しかったものもすべて手に入れ、ゼロイチみたいな発掘はなくなりました。全クリしてしまったゲームをどう楽しもうか?というような状態で何年も停滞しています。
この状態でお金もなければ、モチベーションがないのに縛られ続けるという地獄のような状態だったと思うので、つまらないけれども非常にありがたい状況ではあります。この生活を失うことへの恐怖からなのか、お金を増やすことに必死になりすぎて(今年はむしろ投資損失で結構減らしてしまっていますが)、お金によって自由を獲得したのに自分から自由を手放しているように感じます。何かに集中するわけでもなく、SNSを眺めながらダラダラ投資してお金を減らしているというどうしようもない状態です。
一人でぶらぶら散歩をしていて思ったのは、僕はお金がなくなってまた多忙なサラリーマンになる必要が生じる恐怖が拭えないから、お金になることにしか興味を持てないという精神性になってしまっているのではないか?ということでした。
目先の生活費を月給で獲得し続けなければならないサラリーマンだった時のほうがこの思いがとても強く、残業代や昇格・昇給を気にしたり、仕事の傍らで追加的にたくさんの難関資格を取得したりしていました。いつだって未来の準備ばかりしてしまうのです。それに本当に意味があるのかなんてわからないのに。
大人になるとゲームにハマれなくなる現象もコレで説明がつくのではないかと思っています。自らの労働で生活を維持するようになると、呼吸をしているだけでお金も時間も溶けてなくなっていくことを強く意識するようになるので、心配性な人ほど、バッファがない人ほど、「これをやってどうなる?」がないことを素直に楽しめなくなってしまうのではないでしょうか。何もかも商業化できなければ価値がないと思ってしまうのです。
これって20代の頃はこれを「合理性」だと思っていましたが、一歩引いて見えるようになった今は資本主義の「奴隷思想」なんじゃないかと思うようになりました。
この呪縛から自らを開放することができれば、今まで価値を感じることができなかったことに価値を感じるようになり、面白いと思えることが現れるのではないかと思いました。なぜならば、子供の頃ってずっと楽しかったじゃないですか。アレって何もかも目新しかったというのも大きかったのだと思うのですが、生活維持を気にしなくてよかったという点も大きいのではないかと思うのです。
僕は人生を表面的に全クリした気がしていただけで、実は全然見えていなかったという可能性を感じています。どうせ死ぬし、死んだら何も残らないのだから、自分の意思に従って今を楽しまなければもったいないのだけれども、今を楽しむにもそのための精神的な在り方が求められる、ということなのではないかという考えに至りました。
もう一つ思ったのは、プライベートを節制しすぎな気がしてきました。
先日友人家族と遊んだときに、屋内型キッズ施設で遊んで自販機でジュースを買って31アイスを食べてbillsで食事をしたのですが、自分の家族だけだったらこんなにお金を使わないなぁと思いました。
僕はそもそも根っからの貧乏性であるのと、子供が全然稼げなかったとしても最低水準でも生きていけるように意識的に生活水準を低めにしています。
よくよく考えると、週末に1日1万円使っても週に2万円、月に8万円、年に96万円しか使いません。1日の投資損失でそれを超えてきたりするので、この程度を節約してもあんまり意味がないような気がしてきました。
むしろ、残りの子供と過ごす時間の短さを考えると、生活水準どうこうを気にするよりも、もっとたくさんの思い出を作ってあげたほうがよいのではないかと思いました。お金をかければ思い出ができるとは限りませんが、割と近いところはあると思います。
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